日本チーム「失敗の本質」

サッカーW杯で日本チームは予選リーグで惨敗を喫しましたが、

ここではよくある精神論的批評を排し、組織論的なアプローチからその敗因を探ってみたいと思います。

タイトルにある「失敗の本質」とは、かつての日本軍の敗退を題材にした名著「失敗の本質」(野中郁次郎他著)からとっています。くしくも今回の日本チームを見ていると、戦争とスポーツの違いはあるものの、同じ国民性から生まれた共通項が見え隠れしてきます。

 

1.声の大きな者と情緒的コネクションに流される風潮

言うまでもなく、チームの精神的支柱ともいえた本田圭佑選手の「優勝宣言」に日本中が期待を膨らませたわけですが、国民だけでなく、チーム自体からもどこか楽観的でふわふわとした印象(「自分たちのサッカーをやれば勝てる」的な)を受けたのは私だけでしょうか。本田選手の意図は、チームメイトをその気にさせ、士気を高めることにあったはずですが、それにより「本田がああ言ってるんだから」という潜在的な意識から、安易にその空気に同調する選手が多かったように感じます。明らかに本来の調子ではない本田選手を、「本番には力を発揮すると信じる」という発言に終始した監督も含めて、客観的で冷徹な戦力分析/戦術的な根拠を持たずに情緒的な空気に流されたと言えないでしょうか。ちょうど、満州戦線を拡大した現地の有力将校達の声を、上層部がなし崩し的に、無責任に追認していった空気と同様に感じます。

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2.戦略合理性の不足

上記「失敗の本質」の文中に、以下の記述があります。

「事実を冷静に直視し、情報と戦略を重視するという米軍の組織学習を促進する行動様式に対して、日本軍はときとして事実よりも自らの頭のなかだけで描いた状況を前提に情報を軽視し、戦略合理性を確保できなかった」

「日本人のサッカーは世界に通用する」という耳障りの良い指揮官の声から、自分たちにとって都合の良い状況だけを想定していなかったか?世界ランキング(※というものがどこまで客観性が担保されているか知りませんが・・・)などから見て、日本は他の3チームよりも明らかに格下であり、その格下が格上のチームに勝つために、どのような分析をして、どんな戦略プラン(プランB,Cも含めて)を持って試合に臨んだのかに関心があります。マスコミなどは、結果だけを見て評価する風潮が強いですが、今検証すべきは「準備段階でベストが尽くされていたか?」という点であると思います。

初戦のコートジボワール戦を見た限り、より対戦相手の分析を緻密に行い、明確なゲームプランを持って臨んでいたのは、”格上”であるはずのコートジボワールであった印象です。「本番の試合で普段の力を発揮できない点」をザッケローニ監督は日本サッカーの課題に挙げていましたが、選手たちを責めるよりも、この1か月間をかけて、組織として一体どんな準備をしてきたのかに強い関心があります。

 

3.「組織として」の経験学習機能が無い

早速ザッケローニ監督が退任を発表し、後任の監督人事が騒がしくなってくるが、このあたりも日本人の悪い癖なのでは?

監督を任命し日本チームの強化方針を定め、運用するのは日本サッカー協会であり、そもそもどういうグランドデザインを持って臨み、その結果どうだったのか?という検証をしっかりと行わないと、組織としての学習体験が蓄積されません。おそらく、そのグランドデザイン自体がなかったか、あるいはあったとしても曖昧なもの(南ア大会では守りはできたので、次はトレンドのパスサッカーをベースにした攻めの強化・・・ といった程度もの)しかなかったのではないか?と思えてなりません。早速、「方向性は間違ってなかった」という協会重役のコメントが出ていますが、この段階で自分たちが安易に自己肯定してしまえる風潮自体に危ういものを感じます。ここの検証プロセスをしっかり踏まないと、また次の監督が属人的に打ち出す方向性で4年を過ごし、結果に一喜一憂するだけの風景が繰り返される気がしてなりません。

もちろん、こういったことが他国でしっかりとなされているかどうかはわかりませんが、日本はサッカー後進国であるという事実を踏まえ、先進国に追いつくためにより高いレベルでの組織的なサッカー(ここで言うのはピッチの上だけのサッカーでなく、もっと広義の組織です)を展開しなければと思います。

これは、企業経営においても当てはまることで、「中小企業がいつまで経っても大企業に追いつけない」のも同じ構図です。この辺の詳細はまたの機会に。

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